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東君平の世界 かぎりない やさしさ いつまでも

RECRUIT

東 君平物語
さみしがりやの魔法使い
西島三重子

少年の日々
 昭和十五年一月九日、君平さんは神戸で生まれた。父の信一郎氏は大きな病院の院長で、君平さんは、その六人兄弟の四番目として、裕福な幼年時代を過ごした。そして太平洋戦争の勃発。戦火により家を消失した東一家は、西宮の親戚に身を寄せることとなるが、幼かった君平さんはすぐ上の兄と、和歌山児の富田にある親戚に疎開させられた。やがて終戦。君平さんたちも和歌山から呼び戻され、一家は伊丹に居を構えた。
 昭和二十二年、君平さんが伊丹の池田小学校に入学するとまもなく、神戸市橘通りに病院が再建され、一家は神戸に戻ることとなった。君平さんは、教育熱心な母・マサさんの希望で、神戸の名門雲中小学校に転校した。戦後の神戸の街ではアメリカ軍人の姿がそこここでみられた。我がもの顔で俳個するアメリカ兵や、生きるために這いあがろうとする人々の姿を、多感で好奇心の強い君平さんの目が、どんなふうにみつめていたかは、のちに書かれた『くんぺい少年の四季」一PHP刊一に、色を失うことなく生き生きと描かれている。それは君平少年の最も幸せな時期だった。

 昭和二十八年、君平さんは浜協中学へ進学するが、父の死をきっかけに家が破産し、東一家は離散した。君平さんは、妹と共に静岡県仁科の母の生家へ預けられたものの、祖母との折り合いが悪く、静岡県賀茂郡安良里村で、鰹節工場を営む遠縁に、単身、預けられることとなった。安良里での生活は、何不自由なく過ごしてきた少年には、辛いものだった。君平さんは働きながら、安良里中学へ通う。鰹節工場の手伝い、薪割り、鶏糞の俵担ぎ、なんでもやった。
 そんな君平さんを案じて、東京へ出た母と兄から、時々手紙が届いた。正月には来いと書いてきた母に、一生懸命貯金をしていると返事を出したこともあった。母からの手紙は涙が出るので、いつも布団の中で読んだという。涙を人に見られたくなかったのだ。そして大きくなってから思い出すようにと、そのこともしっかり日記に書きとめたのだった。○○
さまよう青春
 昭和三十年。中学校を卒業すると、君平さんは母や兄を頼って、家出同然に上京する。しかし、そのあまりの貧しさに君平さんはがっかりした。兄の捜してくれた勤め先に行ってはみるものの、どれも半日と勤まらず、おまけに東京の流れの速さにもついていけず、わずかの間に苦い敗北感を味わった。

 結局どうにもならず、兄の紹介で、熱海の写真屋「トミオカ」に、住み込みで働くことになった。君平さんは、先輩である寛さんと一緒に、店の二階で寝起きした。
 部屋の窓は、隣の家の娘、千恵子さんと尚美ちゃんの部屋と隣接していて、君平さんは、当時、四年生の尚美ちゃんと仲良しになって、よく窓越しに話をしたり、ケシゴムでハンコを作ってあげたりして遊んだという。
 そんなある日、尚美ちゃんが「おにいちゃんは絵描きさんになるといいのに」といった。絵で身を立てるなど、考えもしなかった君平さんだったが、尚美ちゃんの言葉に、胸の中にフッと湧きあがるものを感じたのだった。本格的に絵を描き始めたのは、このころからである。
 画材に苦労した君平さんの手法は、写真屋ならどこにでもある、印画紙を保護するための黒い紙を使った、切り絵だった。それを安全カミソリで切り抜いては、小さなスケッチ・ブックに貼った。相撲取り、アジの骨、エビ、犬に追われ木に逃げる猫……。懸命に自分の将来を模索していた君平さんは、水を得た魚のように、夢中で身の回りの情景を描き続けた。もちろん技術的にはまだまだだったが、そこにはすでに、才能の片鱗をうかがうことができる。
 君平さんは、この町で様々な人に出会った。富岡夫妻、寛さん、ラーメン屋の重岡さん、こけしのように可愛い尚美ちゃん、清楚な美人の千恵子さん、熱海温泉の芸妓の兄習いさんたち……。様々な人の様々な人生模様を、君平さんは大きな目と旺盛な好奇心でみつめながら、多感な時代を過ごしたのである。あらゆる意昧で、熱海時代は君平さんの原点となった時期であった。○○、○○○
夢を追いかけて
 十八歳になると、君平さんは「絵描きになる」という夢を抱えて上京した。始めに落ち着いたのは、築地の新聞販売店だった。そこで働きながら中央大学付属高校の定時制に通うが、両立できず、わずか十ヵ月で中退し、お茶の水美術学院にも通ったが長続きしなかった。その後、君平さんは東中野の写真屋に住み込み、DP技術をマスターしながら、作品を作っては、出版社や新聞社に持ち込んで見てもらったりしていた。

 昭和三十四年五月、小さなカットなどの仕事をもらえるようになっていた君平さんは、東北沢の写真屋で働くことになり、中野区鷺の宮に、友人と二人で小さな部屋を借りたた。初めての白分の城である。そして三ヵ月後の八月十五日。「週刊漫画」(芳文社)から「稿画料を送りたいので、住所を教えてほしい」との連絡があった。生まれて初めてもらう稿画料だった。三日後、君平さんは稿画料を手にした。その日の日記を、ここに紹介しよう。

「8月18日(火)晴れ
記念すべき日。生まれて初めて自分あてに小切手をもらった。週刊マンガからのもので金額四百二十五円也、カットの原稿料として。電気代百四十円也を払った。残額でアイスクリームを三十円買った。あとは洗濯代等に使う予定。でも初めての原稿料、本当にうれしい。」
 これが君平さんの白信につながったことはいうまでもない。そんな中で君平さんは、のちに『ぼくらは森の音楽家』と題して雑誌「漫画読本」(文塾春秋)に発表する一連の作品を作った。高校にもふたたび通う決意をし、明大付属中野高校の定時制に再入学する。
 母から画家・堀文子さんを紹介されたのは、このころである。掘さんは君平さんの若い才能を絶賛し、「エラリイクイーンズ・ミステリマガジン」(早川書房)や「こどものせかい」(至光社)などの仕事を紹介してくれた。
白と黒の時代
 昭和二十七年。君平さんは「漫画読本」で、切り絵画家として本格的にデビューした。二十二歳だった。誌面には君平さんの紹介記事とともに、作品の特集が組まれた。
 そして、その作品に、心打たれた女性がいた。のちの夫人となる杉木英子さんだ。当時、英子さんは某企業の広報部に勤めていた。英子さんは「漫画読本」を持って上司のもとへ走ると、君平さんの絵を使いたいと力説した。英子さんの願いどおり、君平さんの作品は採用されたが、二人が顔を合わせたのは、それから半年ほどたってからだった。英子さんは、社の君平さんの担当として接していたが、君平さんは、たちまちチャーミングでやさしい英子さんの魅力の虜となった。
 翌年、君平さんは、明大付属中野高校から転校して通っていた盆進高校を卒業する。
 七月には谷内六朗氏の後押しで、新宿・伊勢丹ギャラリーで、初めての個展『白と黒の世界』が開かれ、大評判となった。
 君平さんの絵は、影絵とは逆の白く切り抜く画法である。白と黒。暖昧なものを許さない二つの色のコントラストが、見る物の心をとらえて離さない。君平さんは、浴れる才能と鋭い感性で、たった二つの色で、独特の『東君平の世界』を築きあげてしまったのだった。その君平さんの世界に多くの人が魅せられた。
 そして九月。四谷の陸橋の上で、ついに君平さんは英子さんに「一緒にアメリカで暮らそう」とプロポーズする。けれど英子さんには、大学時代を過ごした九州に、婚約者がいたのである。絶望した君平さんは自殺を図る。辛い命はとりとめたが、君平さんは英子さんに「いいよ、プロポーズ断っても。僕が、また死ねばいいんだから……」などといった。強引といえば、これほど強引なことはない。
しかし君平さんは、それほど英子さんを愛してしまったのだ。君平さんの激しい愛にとまどう英子さんの心を決めさせたのは、反対していた父の陰で、じっと見守っていた母の一言だった。「私だったら、君平さんの才能に賭けてみるわ」
 そして、ついに喫茶店の片隅で、英子さんは君平さんのプロポーズを受けた。ふと見ると、テーブルの上に一枚のチョコレートがあった。君平さんは、その銀紙をはずすと、指輪を作って英子さんの指にはめた。「ダイヤモンドよりきれいだわ」といって流した英子さんの涙を、君平さんは真珠のようにきれいだ、と思ったという。
 十二月二十一日。国際文化会館に、二人を祝福して、大勢の友人、知人が顔を揃え、結婚式がとり行われた。モーニングとウエディングに身を包んだ二人は、まるで、西洋人形のように可愛いらしかった。君平さん二十二歳、英子さん二十四歳のときである。
 年が明けた昭和三十九年一月九日、二人は渡米する。まだまだアメリカで暮らす日本人は、少ないころのことだ。君平さんは、ニューヨークで活躍する画家、東(あずま)氏と出会い、毎日のように彼のアトリエに通って、シル.クスクリーンを学んだ。以後、君平さんの切り絵には、このシルクで刷られた黒い紙が使用されるようになった。さらにアブストラクト・.アート、いわゆる抽象画にも挑戦した。その作品のすばらしさに感動した東氏は、君平さんに画商を紹介してくれた。生活のためには絵を売らなくてはならないからだ。新人が画廊に絵を置いてもらうことは難しい。買手がついて初めてお金をもらえる。しかし君平さんの作品を見た画商は、そのとき持っていた作品を、その場で現金で買いあげてくれた。
 これには東氏も驚いたという。君平さんは、日本の出版社にも作品を送りながら、ニューヨークの人々、街の様子などを、精力的に描き続けたが、生活のためとはいえ、自分の手を離れていく作品たちとの別れを惜しみ、それらをフィルムに収めて手もとに置くようにした。

 八月、君平さんたちは帰国した。けれどわずか半年のあいだに、日本での状況はすっかり変わっていた。仕事の場が無くなっていたのだ。君平さんの何度目かの試練が始まる。とまどう英子さんに、君平さんは「英ちゃん、今からなんだよ。今が本当のスタートなんだからね」とニッコリ笑ってみせた。そしてまた、食べるために絵を売る日々が始まる。その年の暮れ、君平さんは銀座・松屋で二回目の個展を開き、原画を展示即売した。
 そして十二月には初めての絵本『びりびり』(至光社)が出版された。
 昭和四十年五月。長女・菜奈ちゃんが誕生する。
 そんなとき、毎日新聞から連載の話があった。週の行事を紹介するコーナーで、君平さんは、そこで四季折々の風物などを描いた。のちの「おはようどうわ」の前身である。このころから、仕事は順調に回転し始め、宇野亜喜良、黒田征太郎氏らとともに『東京イラストレイターズクラブ』の創立メンバーにも名を連ねた。
 昭和四十一年には『白と里一のうた』(文化服装学院出版局刊)、『にゃんこちゃんえほん』(実業之日本社刊)も出版された。
 ふたたび軌道に乗り始めた君平さんは、翌年、ヨーロッパヘと向かう。そして三ヵ月の長期に渡って、フランス、オランダ、北欧を、スケッチ旅行してまわった。
 昭和四十五年。犬年だったその年、松屋にて、君平さんの紙ねんど作品による『101匹のわんちゃん大行』」と題した展覧会が開催され、子どもたちの人気を博した。八月には、次女・未菜ちゃんも誕生した。そして君平さんは、イラストレーターとしての地位を確立していったのである。
あたらしい道
 君平さんのライフワークともいえる、毎日新聞の「おはようどうわ」の連載が始まったのは、昭和四十八年の一月だった。それを機に、君平さんの仕事は、絵よりも文章に比重がかかるようになる。それからしばらくして君平さんは突然、「週刊文春」(文藝春秋)に『イラストレーター廃業宣言」の広告を出して、世間を驚かせた。君平さん特有のいたずらでもなければ、絵を描くことに挫折したのでもない。あふれる想いを言葉で伝えたかったのである。以後、君平さんは「絵はおまけ」といったが、決して手を抜いたわけではなかった。単純化する絵の中で、また一つ、新しい世界を築いていったのだった。
 仕事の依頼は後を断たなかった。そして、広告、エッセイと、さらにその幅は広がっていった。
 翌年には月刊「詩とメルヘン」(サンリオ)で「くんぺい魔法ばなし」の連載も始まった。
 そんなある日、君平さんの家に、甥の山口進さんがやってきた。エリートサラリーマンだった彼は、昆虫の写真を撮ることを仕事にしたくて、相談にきたのだった。
君平さんは「ほんとにやる気があるのなら、すぐ会社を辞めなさい」といった。その日から東家の家族が一人増えた。この進さんの登場が、君平さんの行動をさらに広げ、旅へと誘うこととなった。
 昭和五十年春。君平さんは進さんと、幻の蝶といわれるヒメギフチョウを求めて、八ヶ岳に旅する。残念ながら、幻の蝶を見ることはできなかったが、君平さんは八ヶ岳の白然のすばらしさにすっかり魅了されてしまった。
 翌年の春には進さんと、十一歳になったばかりの菜奈ちゃんを連れて、沖縄県の西表島を縦断し、その奮闘ぶりを『ヤマネコの島縦断記』(PHP刊)としてまとめた。
 さらに続々と本が出版される中、君平さんは友人とともに『おはよう舎』を設立した。
この年『毎日広告賞第一席』も受賞した。
 昭和五十二年は巳年だった。シャレの好きな君平さんは、新年早々、銀座・松屋で、おはよう舎主催の『へび年展』を開催し、コルクで作った本『へびとりのうた』(おはよう舎刊)を始め、へびグッズを展示即売した。
夏には日本テレビ『遠くへ行きたい』の収録のため、進さんと菜奈ちゃんとともに、北海道大雪山に、ウスバキチョウを捜しに行った。
 その年の『毎日新聞社・児童文学賞』の第一席には、『のぼるはがんばる』(金の星社刊)が選ばれている。
 けれど、君平さんの仕事が忙しくなればなるほど、友人も増え、お酒の量も増えていった。もともと友人と飲むのが好きだった君平さんは、「どうどうと朝帰り」などということも、しょっちゅうだったが、あまり仕事場に泊まる日が続き、いよいよ帰りにくくなると、スカーフや眼鏡で変装して帰ったりしたという。
 昭和五十二年。君平さんは初めてアフリカヘ旅行した。もともと動物好きだった君平さんは、実際に大自然の中で生きる動物たちを見て、歓喜した。また、この年、サンリオ主催の『詩とメルヘン賞』を受賞した。

 昭和五十五年。君平さんは、アフリカを訪れた時の感動が忘れられず、杉浦範茂、寺村輝夫氏らと、ふたたびアフリカを訪れる。しかし君平さんが目にしたのは、干ばつにより激減した自然と、動物たちの悲惨な姿だった。
「何かできることはないだろうか」と思った君平さんは、翌年『くんぺいごしちごアフリカえほん』を自費出版して寄付金を集め、その収益金を全額アフリカヘ送っている。
 昭和五十八年の夏、君平さん一家は小淵沢に貸別荘を惜りた。以前、甥の進さんと訪れた所である。
「いつか、ここに僕の美術館を建てられたらいいなあ」何気なく喫茶店でいったひと一言に、店のオーナーが「そういうことならいい場所、ありますよ」と紹介してくれた。その土地を見て、君平さんは、いっぺんで気に入ってしまった。とんとん拍子に話がまとまり、君平さんは、また一つ、新たな夢を持つことになった。その土地に、のちに『くんぺい童話館』が建つことになる。
消えない魔法
 そして昭和六十一年を迎える。この年、長女の菜奈さんが成人式を迎えた。三月は家族でハワイ旅行をし、母を連れて神戸へも行った。さらに家族とスリランカ、モルジブヘと旅行した。まるで何年分かの家族サービスをいっぺんにやってしまったような行動ぶりだった。
 夏の終わりごろから君平さんは、なんとなく風邪っぽいといっていたようだが、それが大病の前兆だとは、誰も思わなかった。それほど君平さんは精力的に仕事をこなしていたし、『君平美術館」の実現へむけても、夢を膨らませていた。本も順調に出版されていた。けれど、それらとひきかえにするかのように、身体は次第に弱っていったのである。
 十一月二十九日。君平さんは、ついに京橋病院に入院するに至った。この時でさえ、まさか君平さんの病気がそんなに重いとは、誰も思わなかった。いちばん思っていなかったのは、君平さん自身だったかもしれない。
 それでも、虫の知らせだったのだろうか、亡くなる四ヵ月ほど前、君平さんは雑誌「第三文明」(第三文明社)のエッセイに、次のようなことを書いている。
『この頃』
……(前中文略)……
「何も欲しいものが、なくなってしまった」
口に出して云えば、こうなるけれど、つくづくと、近頃は思う。四十六歳で、こんなことを、ぼんやりと、考えていいのだろうか。
「でも、ちゃっかりと、いちばんいいものを、手に入れているじゃないか」 だから、他に何も求めなくなっているのかもしれない。
 小さなノート一冊で、こんなにも、自分の中で変化が起きるものだとは思いがけないことだった。
 もし、もっと、もっと、楽しい嬉しい言葉が、自分に書けるのなら、ながいきしたいと、思う。

昭和六十一年十二月三日。
君平さんは肺炎のため、亡くなった。
永遠に消えない『魔法』を私たちにかけたまま、君平さんは風のように、昭和という一つの時代を走り抜けて行った
おねがい
なつがしがっては いけません
だいじなおもいで わすれます
さみしがっては いけません
ほんとのなみだが でてきません
かなしがっては いけません
みているひとが つかれます
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